2016年08月09日

平成の玉音放送

 日本には憲法で保障された基本的人権を付与されていない人がいる。天皇家の人々だ。
 学生の頃、僕は天皇制を日本の古い国家体制と人権抑圧の象徴として憎んだ。70年前の8月15日の玉音放送はまさに古い日本がガラガラと崩壊する感動的な音だった。
 昨日、平成の玉音放送があった。
 天皇の主張に賛同する。そのことより、今思うのは、連綿と続いた天皇制度の一員としての自らを受け入れ、国民の元首ではなく象徴という新しい憲法下の意義を模索し築き上げてこられた天皇という人間への敬意だ。
 イギリス流のヒューマニズムを身に着けた天皇は、これまでリベラル保守主義者と見えるほどの言動を示されてきた。しかし彼は天皇であらねばならない。制度と個人との狭間で想像すら難しい葛藤を生きられたに違いない。
 民主化された日本のような国では「制度下の葛藤」はなくなりつつある。離婚の増大にみるように、苦しければ逃げろ!となる。自由ばかりが謳歌され身勝手やだらしなさに歪曲されて、自由の本当の美しさが汚されていく。
 身分や制度を守れというのが保守の神髄だと思うのだが、確かに今は、何か大きな壁と真っ向から向き合って個人を考えるという機会が少なくなっている(会社組織を除けば)。「何もかもからの自由を求める」「国民の象徴など不要」と考えていた若い僕は、「象徴という微妙で繊細な立場の意義」や「制度や壁とどう折り合いをつけていくか」を考える老いた僕に変わっていった。
 そういう意味で、制度下に生きる人間の苦悩と闘いつつ、国民の象徴としての存在の輝きを追求してこられた天皇を、僕は美しいと思う。
posted by ヨッシー at 11:35| Comment(0) | 個人的分野
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