現在は、6月半ばに上演する「荷風幻像〜老愁は葉の如く〜」の読み合わせ稽古の終盤に差し掛かっています。
東京大空襲で長年馴染んだ偏奇館という名の自宅を焼け出された永井荷風は、東京・岡山・熱海を転々と逃げながら、戦後の昭和21年1月の冬空に、わが街市川に流れ着きます。68歳の孤独な老人としては、憔悴極まりない哀れな姿で、市川市菅野に立つことになります。
今から63年前ですね。その後13年を市川市の住民として過ごすことになるわけです。
今回の公演は、市川市との共催で「市川の永井荷風」上演委員会を結成し、一般公募の市民俳優32名との共同作業となっているのですが、いつもはいるはずの子どもはゼロ、県内外の大人ばかりが集中した稽古を進めています。
戦後の市川とと言う風土やそこで暮らす人々が、永井荷風の老後の人と作品にどのような影響を与えたのかを探るのが、今回の公演の目的の一つでもあります。
さて、63年前の市川とはどういう街だったのでしょう? 水木洋子さんもその頃市川に住み始めるのですが、彼女は八幡神社の傍に住んで、朝は牛の鳴き声とともに目覚めたといいます。近くに牧場があったのですね。
荷風も「葛飾土産」という散策紀行文で、真間川の河口へと足を伸ばしていって、驚くような美文調でこの辺りの牧歌的な情景をしたためています。散歩が大好きだった荷風さん、その豊かな農村の暮らしを楽しみながら、次第に気力と体力を回復していったことが偲ばれます。
そこで市川の住民として登場する人には市川方言を使ってもらおうかなと思っています。方言こそ風土そのものですものね。
市川の方言といっても、浦安や行徳、菅野、大野といった地域を隔てればかなりニュアンスのちがう言葉であったようです。いずれにしろ、今はほとんど使われなくなってしまいましたが。
今世界中で、地域言語が消えていきつつあるそうです。日本でも沖縄地方では島ごとの方言というより地域言語が、また北海道のアイヌ語などがどんどん消えていきます。方言と地域言語とはちがうのですが、いずれにしろ、これは日本文化の死活問題です。絶対消滅させてはならない貴重な文化です。
世界の歴史にあっては、権力者はまず、言語を統一することから国を支配しようとしてきました。日本民族統一の概念とともに、共通標準語を拡大してきたのも事実です。「方言はみっともないから使いません」と子どもを教育し、地域の豊かな暮らしと文化とを塗りつぶしてきたのです。
そこで、アクト・ローカリー シンク・グローバリー を自負する私は、この公演を機会に、故郷彦根の言葉とともにわが街市川の方言も大いに復活させようという運動を起こそうと思います。
まず手始めに、「荷風幻像」に登場する地元の人間に菅野の方言を教えてくださる方をご紹介いただければと思います。
6月、グリーンスタジオの舞台から、市川方言は復活します。
2009年03月20日
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