昨夜、BSで映画「ひめゆりの塔」(1982年版)を見ました。小早川祐子がまだ初々しくて可愛くて健気でした。
ひめゆり部隊とは、沖縄攻防戦時に組織された高等女学生による戦病傷者の看護支援を目的としたボランティア組織です。15歳から17歳あたりの女子学生が、軍部と共に行動して、沖縄各地の激戦区を逃げ惑い、最後はほとんど殺されていきました。
脚本を書いたのが市川に住んで活躍した水木洋子さんです。来年の市民ミュージカルは、水木洋子生誕100周年を記念して、「女の一生〜水木洋子ワールド!〜」と題して、氏の半生をミュージカル化しようと現在執筆中なので、つい見入ってしまいました。
映画は全編、逃げ惑った挙句の死で終わっていきます。沖縄周辺の島々で14万人もの人間がこうした死を強制されました。無残な犬死にというしかありません。
私たちは、夏には必ず「戦争はイヤだ」といいます。そしてそれで終わります。現に起きている諸外国での戦争に対して何も行動しません。「戦争はイヤだ」と口にしつつ、戦争を起こさせないための努力をしようとはしません。現に今度の総選挙では北朝鮮への憎悪を煽り立てる宗派が大挙して立候補しています(あの宗派は選挙敗北後にかつてのオーム真理教のような方向に突っ走っていくのではないかと心配です)。
誰もが嫌がる戦争というものが何故起きてしまうのか? その視点から放映されたNHKの最近の「当時の軍部中枢にいた高級将校たちの証言特集」からは、身も凍るような衝撃を受けました。
不況のどん詰まりの果てに、経済圏を争う国々が互いにエゴと憎悪を振り撒き始めます。安易で早急な解決策を声高に提起する連中が権力中枢に浸透します。その筆頭が武力解決の軍部です。情報は国民に隠され、権力中枢に集中します。でも極めて主観的に判断するから情報はいいように改ざんされます。
そして、一か八かの決戦に乗り出すしかないという雰囲気に誰もが飲み込まれていきます。立場の弱い者、視野の狭い者、発言する勇気のない者たちが自己責任を放棄していきます。沈黙するのです。誰もが危険だと不安がる中で、誰もが真の責任を自覚しないままに、開戦や特攻攻撃という重要事項が決定されていきます。組織と人間の不条理な関係が人間の存在を否定していくのです。
この組織と人間の関係性の悲劇は永遠に繰り返すしかないような、まさにそれしかないような真実の姿が人間の長い歴史に数多く現われています。何という悲しい人間の姿でしょう。あなたの会社でも、あなたの家族でも、身近な団体でも、いちぶんネットでも、同じ危険性を秘めているのでしょう。
では、どう打開していけばいいのか? わかりません。情報を公開してみんなの権利を保証していくしかない。ウダウダ、ガヤガヤ、行きつ戻りつしつつ民主主義の原理を身に付けていくしかないのでしょうか。
かつての大戦後、ある作家は言いました。「あの戦争には反対だった。でもいざ開戦してしまえば、自分の国が負けてもいいとは思わなかった」。ぼくもそこに身を置いた時、やっぱり同じ言い訳をしてしまうのでしょうか?
8月中に仕上げねばならない台本は遅々として進んでいません。
2009年08月21日
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