2010年10月19日

井上ひさしの業績

今年4月急逝された小説家・劇作家の井上ひさしさんは、1967年から87年までの20年間、市川市中国府に住んでいました。33歳から53歳までの最も旺盛な活動を展開された時期でした。三人の娘さんを育てられ離婚とともに鎌倉へ移転されていきました。

文化振興財団前理事長でもあった井上さんを偲んで、市川市では今年から彼の誕生月の11月に合わせて今後5年間の集中記念イベントを展開するそうです。
僕も氏の業績を振り返って、市川にもっと大きな演劇文化を育てていけたらと願って、市民舞台スタッフの養成事業や追悼公演をやりたいなと、市民協賛企画を提案中です。

今、井上さんの書いた膨大な数の戯曲を集中的に読み直しています。いくつかの特徴が浮き出てきました。初期の頃の作品はまるでミュージカルです。あふれんばかりの言語遊戯とコント、猥雑、現実批判、のエネルギーに満ち溢れています。井上さんは「永井荷風に憧れて市川市にやってきた」といっていたそうですが、荷風と同じスケベエ心もいっぱいです。
中期では、歴史上の有名人の興味深い人生と業績を描く方向に進みます。登場人物も少なくなり、一人がいろいろな人物を演じ分ける方法論を確立していきます。
後期では、文体も台詞も、しみじみとした描写が多くなり、「戦争と日本人」をテーマに絞って、観客にじっくりと自己を振り返らせる事を狙っていくようになります。
それにしてもなんと驚くべき読書量でしょう。まさに雑学の権威といえるでしょう。娘さんたちは「お父さんは眠らない人だ」と思っていたそうです。そして執筆構想中は部屋一面に大きな模造紙を何枚もつなげて、膨大なメモを記入して言葉の城を築いていったそうです。

最も活発な20年間を過ごされた市川で、井上さんの偉業を継承していく方法は資料保存などではないのではないか? その実践そのものを引き継いでいくこと、まさに新しい演劇文化の花をこの地に咲かせていくことではないか? 演劇に関わるひとりの市民として、微力な僕も責任の一端を担っていこうと思います。
posted by ヨッシー at 18:49| Comment(0) | NPO、市民活動
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