施設にいる100歳の母の様態が思わしくないとのことで、覚悟の礼服持参でちょっと長く郷里に帰っていました。
空調の効いた施設とはいえやはり暑さがこたえるのか、母は食事が取れなくなったり眠れなかったりします。点滴を受けてまた元気になり、またしばらくすると元気がなくなる。点滴を受ける回数が多くなっていきます。17日は亡き父の13回忌で多くの親類が集まり、母を次々と見舞いました。母も興奮していました。
法事のために仏壇のある今は誰も住まなくなった実家を掃除しました。庭は荒れ果て屋内はすすがはびこって、誰も住まなくなった家は一気に廃れるものですね。幼かった頃の思い出と悲しみが襲い掛かってきて、かえって力が入り熱中症になりかけました。母が可愛がっていた猫がまだ居ついていました。兄が時々えさやりに通っていますが、母の姿が見えなくなって久しいことをあの猫はどう感じているのでしょうか。
母を見ていると「役割を終えた命が消えていく」という実感が強くします。「死ぬ」というのとはちょっとちがいます。だから寂しくはあっても悲しみはそう強く感じません。「ありがとう」と呟くばかりです。父の時もそうでした。天寿を全うする両親は幸せですね。
その施設は、最期は病院にいかないで施設の中で見取りを遂行してくれるそうです。聞けば、人間が死ぬことは法律的には簡単なことではないんですね。「命を終えようとしている人」が何故「命を助ける」病院の関与を受けねばならないのでしょう。我々息子は本当は母の家で見取りたいのですが、そうもいかず、施設で見取ってもらうことを選択しました。もう間もなく本当の終わりを迎えるでしょう。
5日ばかりの休暇の間に、いろいろな情報がパソコンにたまっていました。また今日から多忙な生活が始まります。生きていられればこその忙しさ・・・喜んでこの多忙さに立ち向かおうと思っています。
2013年08月18日
命を終えるということ
posted by ヨッシー at 10:43| Comment(0)
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