2010年12月20日

満員御礼!

荷風幻像?東編が好評裏に終了しました。心配していた観客動員も結果的には満員、感謝申し上げます。
今回は再演、東京公演への進出、2週間にわたる4ステージへの挑戦、9月の市民ミュージカル公演が終わってすぐの公演など、数々のチャレンジ課題がのしかかってくる中での公演体制でした。
近頃、市川での市民文化活動への評価が変化してきたのを感じます。作品への評価が顕著になりました。今回も両国公演を見たお客さんからの口コミが広がり、市川での当日売りが驚くほどの数になりました。市民俳優たちの実力も板を踏むごとにたくましくなっていきます。
なにより、「市川が羨ましい!」という感想はぼくらを大いに励ましてくれます。ほんとは羨ましがってなどいないで自分らでどんどんやればいいんですけどね。

でも僕は今、今後の活動に対する大きな変革が必要だと思っています。かれこれ十年もやっていれば、これくらいの成果は生れて当然だと思います。でも、本来の目的は、いちぶんネットを立ち上げて試行錯誤を繰り返してきた目的は、「我々の人生と社会のあり方を変えよう」ということだったのではと思い直しています。新しい市民芸術活動の興隆が我々自身を変え、町を変え、国を変え、世界を結びつけることだと夢見てきたはずです。
またまた大きなほらを吹くことになりますが、それくらいの気持ちを持って市民活動に向き合いたいと、打ち上げの翌朝の眠気眼の状態で、活動全体のプロデュースのあり方をもう一度見直していこうと思っています。
やるからにはでかいことやりたい。みんなととてつもない話題を作っていきたい。一人ひとりが生き生きとした表情で結び合うような、そんな社会をつくりたい。
posted by ヨッシー at 14:23| Comment(0) | 劇団七福神

2010年12月14日

「荷風幻像」両国公演終了

永井荷風が愛した?東地域でぜひたくさんの荷風ファンに見てもらおうと企画した両国の江戸東京博物館ホールでの公演、無事終了しました。
舞台は精一杯の出来で、心配だった観客動員もまずまずという状態でほっと一安心でした。ちょうど隣りで「昭和の家族」という人形展をやっていたおかげで、こちらの公演にも関心を持ってもらえて、当日券もかなり裁けました。観客対応のお手伝いをしてくださった方々に感謝です。
市川より西方に住んでおられる方々には、やはり両国会場は行きやすかったようで、「こちらでもどんどん公演なさればいいのに」という声も頂きました。
市川市民が市川でばかりでなく、総武線沿線のこのような集まりやすい会場で公演を打っていくことも大事だなと実感しました。最も仕込み費が2倍かかるわけだから、総簡単なことではないのですが。
今回は再演ということに気を許して、制作体制が脆弱なままで終始して宣伝・観客動員・招待体制などに大きな穴が開いてしまったことを悔やんでいます。
出演した市民が大いに頑張ってくれましたが、出演者だけで観客動員していたのでは活動は延びていきません。これからの活動を保証するために、制作体制を一から見直すことを肝に銘じたいと思います。
とはいえ、この制作体制の強化こそがアマチュア活動の最大の課題の一つといえます。制作という仕事には経験と、そして誠に地道な努力が必要だからです。ここに専従の人を配置しなければならないのはわかってはいるのですが、その人材がいません。
制作とはただ観客動員を増やすばかりでなく、文化を広く伝播していくメッセンジャーであり、その最高点にいるプロデューサーはまさに文化の創造者でもあります。
各地で起きている話題性豊かなイベントの成功はまさにこうした市民プロデューサーの創造の賜物でもあります。そんなどでかい魅力的な仕事をやりたいと志す方はいませんか?
さあ、今週末は市川公演で千秋楽です。皆様、ぜひお見逃しなく!
posted by ヨッシー at 14:52| Comment(0) | 劇団七福神

2010年12月08日

荷風幻像再演

「荷風幻像〜老愁は葉の如く〜?東編」の再演が間近に迫っています。
一昨日と昨日、最後の通し稽古がバタバタとした雰囲気の中で、終わりました。
文豪永井荷風は東京麻布の偏奇館と称した閑静な住居で、優雅な独身生活を満喫していました。東京大空襲ですべてを焼かれ、各地を逃げ回って、昭和21年1月、ボロボロの精神状態で我が街市川に逃れてきました。時に67歳。
戦後すぐに発表された数々の小説は爆発的に売れて、一大流行作家となり荷風ブームを呼び起こしました。でもそれらは偏奇館時代にこつこつと書き溜めていたもの、戦後の荷風にはもう作品を書く気力など残ってはいませんでした。
市川市で1,2位を争う高額納税者であった荷風さんは、また偏屈でケチで助兵衛でエゴイスト丸出しの嫌われ爺と化していました。
当時の市川の風土や光景には作家を慰める力があったのでしょう。「葛飾土産」という散策記を書き上げ、短編をものして、いつしか元気を取り戻した荷風さんは、大好きだった浅草通いを再開します。それも雨がふろうが槍が降ろうが、毎日毎晩、79歳でなくなるまでの13年間の変わることのない余生を送ることになるのです。
私も還暦を過ぎた年齢となってしまいました。これからの落ち葉の如き人生をどう生きていけばいいのでしょう。何を大事に、何を楽しみとしていけばいいのでしょう。そんな日々の愁いの解消策を、私は荷風さんから学び取りたいと思って、作品を仕上げました。
出演する市民仲間たちの奮闘振りも冴えてきました。見に来てくださる方々が羨ましくなるような劇的な興奮をお見せできると思います。
宣伝に終始して恥ずかしいのですが、ぜひご来場ください。市川の演劇文化の到達点をご確認いただければと願っています。
 12日(日) 13時と16時30分 両国駅前の江戸東京博物館ホール
 18日(土) 14時 19日(日) 13時 市川グリーンスタジオ
 お一人1500円
 問合せ先 「市川の永井荷風」上演委員会 TEL/FAX047−393−2941
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2009年04月22日

役者と巡る荷風ツアー

18日、市川市文学プラザ主催で、荷風没後50周年記念の「役者と巡る荷風ツアー」が開かれました。

これは、「荷風幻像」公演に出演する市民俳優と一緒に、市川市内を転々とした荷風の13年間の住居や行跡を追体験しようという試みで、総勢60名の市内外の荷風ファンが参加しました。
晴天の下、まだ桜もチラホラと残る中、市川駅を出発して、菅野の住宅街をぞろぞろと歩む一行を、近所の住民は「一体何事?」と窓から顔を出す驚きのようでした。

昭和20年1月26日、荷風が杵屋五叟とともに最初に流れ着いた日の出学園の教員宿舎跡を手始めに、小西家、最初に買った古屋、最後の終焉の家屋、と巡り歩いて、最後は大黒屋の荷風定食を昼食として解散しました。
その間歩いた歩数は7000歩。荷風が次々と移転したといっても、ほとんどご近所を移動しただけと実感できたのが収穫でした。

要するにずぼらだったわけです。齢70歳前後の老人の一人暮らしだから、「面倒臭い」というのが先にたったのでしょうね。なんとなく身につまされる思いでした。

文学プラザの根岸英之さんや市川案内人の方からの荷風の実際生活のご説明、特にご近所に住んでおられた生き証人の方からのお話はやはり具体的なエピソードに満ちて、楽しいものでした。
そして演劇ではどのように表現するかについて、演出である私からの説明。加えて、各モデルとなる人物を演じる役者からの感想などを交えて、虚実入り混じる荷風像が浮かび上がってきて、楽しい2時間あまりのツアーになりました。

当日は、都内を始め市外からの参加者も多く、荷風ファンの根強い存在を印象付けられました。
ツアー参加費無料。かかった費用は昼食代+ビール代のみで、こんなに楽しい時間を過ごせるわけだから、これからの観光事業のあり方を改めて振り返る機会ともなりました。

午後からの稽古では、役者たちの熱の入り方もちがってきたように思います。役者には創造力も想像力も必要ですが、それらは漠然と考えているだけでは身につきません。何より具体的な資料(考える手立て)が必要なのですが、荷風の生活の跡を探るだけでも十分触発されるものなのですね。

稽古後の酒談義は夜遅くまで続いて、またもや二日酔いに苦しむ羽目となりました。

 あれで飲み これで飲んでは ほら騒ぎ
    相も変わらず 馬鹿な酒飲み
posted by ヨッシー at 01:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇団七福神

2009年03月20日

市川方言復興委員会

現在は、6月半ばに上演する「荷風幻像〜老愁は葉の如く〜」の読み合わせ稽古の終盤に差し掛かっています。

東京大空襲で長年馴染んだ偏奇館という名の自宅を焼け出された永井荷風は、東京・岡山・熱海を転々と逃げながら、戦後の昭和21年1月の冬空に、わが街市川に流れ着きます。68歳の孤独な老人としては、憔悴極まりない哀れな姿で、市川市菅野に立つことになります。
今から63年前ですね。その後13年を市川市の住民として過ごすことになるわけです。

今回の公演は、市川市との共催で「市川の永井荷風」上演委員会を結成し、一般公募の市民俳優32名との共同作業となっているのですが、いつもはいるはずの子どもはゼロ、県内外の大人ばかりが集中した稽古を進めています。
戦後の市川とと言う風土やそこで暮らす人々が、永井荷風の老後の人と作品にどのような影響を与えたのかを探るのが、今回の公演の目的の一つでもあります。

さて、63年前の市川とはどういう街だったのでしょう? 水木洋子さんもその頃市川に住み始めるのですが、彼女は八幡神社の傍に住んで、朝は牛の鳴き声とともに目覚めたといいます。近くに牧場があったのですね。
荷風も「葛飾土産」という散策紀行文で、真間川の河口へと足を伸ばしていって、驚くような美文調でこの辺りの牧歌的な情景をしたためています。散歩が大好きだった荷風さん、その豊かな農村の暮らしを楽しみながら、次第に気力と体力を回復していったことが偲ばれます。

そこで市川の住民として登場する人には市川方言を使ってもらおうかなと思っています。方言こそ風土そのものですものね。
市川の方言といっても、浦安や行徳、菅野、大野といった地域を隔てればかなりニュアンスのちがう言葉であったようです。いずれにしろ、今はほとんど使われなくなってしまいましたが。

今世界中で、地域言語が消えていきつつあるそうです。日本でも沖縄地方では島ごとの方言というより地域言語が、また北海道のアイヌ語などがどんどん消えていきます。方言と地域言語とはちがうのですが、いずれにしろ、これは日本文化の死活問題です。絶対消滅させてはならない貴重な文化です。
世界の歴史にあっては、権力者はまず、言語を統一することから国を支配しようとしてきました。日本民族統一の概念とともに、共通標準語を拡大してきたのも事実です。「方言はみっともないから使いません」と子どもを教育し、地域の豊かな暮らしと文化とを塗りつぶしてきたのです。

そこで、アクト・ローカリー シンク・グローバリー を自負する私は、この公演を機会に、故郷彦根の言葉とともにわが街市川の方言も大いに復活させようという運動を起こそうと思います。
まず手始めに、「荷風幻像」に登場する地元の人間に菅野の方言を教えてくださる方をご紹介いただければと思います。
6月、グリーンスタジオの舞台から、市川方言は復活します。
posted by ヨッシー at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇団七福神

2008年11月28日

市民俳優募集!

市民俳優を募集中です。

来年は、昭和21年に市川に移ってきて、34年に81歳でなくなるまで、13年間を市川の住民として過ごした文豪永井荷風の生誕130年、没後50年の記念の年になります。4月30日が50回忌です。

市川市では文学プラザを中心に、市川市民と共催して、「市川の永井荷風」上演委員会を結成して、記念の演劇公演を6月中旬、会場はグリーンスタジオで開催することになりました。

演題は「荷風幻像〜老愁は葉の如く〜」。作・演出は吉原廣。1月から稽古を始めて、4ステージを公演します。

登場人物は22名。劇団七福神の俳優を中心に広く市内外の市民俳優を公募して、本格的な演劇公演となります。本格的な舞台に挑戦したいと思う方はぜひ挑戦してみてください。一応、12月23日にオーディションを行います。

永井荷風の小説を読んだことがありますか? 50年前になくなった方ですから、若い方はまず経験ないと思いますが、今時の文章とちがって、漢字の多い、黙読するよりもむしろ声に出して読んでいった方がいい、朗読しているとしみじみと日本語の豊かな表現を味わうことのできる、そんな小説の数々です。

代表作には、昭和10年代の娼婦街玉の井に生きる女お雪との交情を描いた「濹東綺譚」や40年にわたって書き綴った日記「断腸亭日乗」などが有名です。

荷風はまた、女を描くことで、一世を風靡した小説家です。「四畳半襖の裏張り」に代表されるように、猥褻か否かで社会を賑わせた春本の書き手でもありました。実際の生活でも、千人を越える女性たちと交わりを楽しんだ男でもあります。

今回のドラマでは、三度の空襲から逃げ惑って腑抜けの状態となって、67歳で市川に流れ着いた荷風、市川の周辺をくまなく歩きまわった荷風、しばらくして浅草のストリップ街を毎日毎晩訪ね歩いた荷風、といった道筋を振り返りながら、「表現者としての老後の孤独と執着」をテーマに、荷風の人間性を検証してみようと思います。

舞台には、ストリッパーや当時パンパンと呼ばれた街娼婦など、たくさんの若い女優さんを必要とします。もちろんおじさんやおばさんも必要です。2時間を濃密な人間交情の空間で埋めたいと思います。勇気ある市民の参加を待っています。

というわけで、今回の舞台は15Rです。しばし大人だけがわかる世界を楽しもうではありませんか。
posted by ヨッシー at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇団七福神