HP掲示板のやり取りを見ていて、面白いなと思うので一言いいます。
いい役に就けなかったとか、えこひいきとか、不満とか、といった否定的な本音が交わされているようです。過去3回の公演ではこういうやり取りはなかったなと、ある意味市民ミュージカルの成長の証しかな、と面白く拝見させてもらっています。
まず前提として、誰もが良い役につきたい、舞台で目立ちたい、と願うのは当たり前です。それを阻害されるような扱いを受けたと感じたら不満がたまるのも当然。それはエゴでも悪感情でもありません。
一方で、誰もが目立つ舞台は良い舞台とはいえません。ストーリー性とテーマを強く押し出すためには、観客が注目する、観客のさまざまな思いを引っ張っていく役柄というものが必要になります。舞台上の役は限定されるのです。ここに配役という難しい作業が必要となります。
イギリスの新聞で、日本のモンスターペアレンツが話題になっています。幼稚園の学芸会で白雪姫をやることになって、白雪姫とか意地悪ばあさんとか小人とかの役を配役する段になって、親の苦情が殺到して、結局全員が白雪姫となって歌い踊ったそうです。それはそれでまた面白い学芸会かもしれませんが、少なくとも白雪姫という劇は成立しませんね。
配役とは、これほどに神経を使う作業です。今回も、何度も指導陣で確認しながら、イメージと表現力の可能性と出演者の意向とを勘案しながら、責任持って主張できる配役をしました。もちろんえこひいきや功労賞的配慮などはありません。市民活動でそういうものが交じり合ったら自滅です。また、全体の成功のために個人のこだわりや自己主張などを抑えろと言うつもりもありません。そういう考えも市民活動にふさわしくないと思うのです。
つまり、市民活動(市民ミュージカルと置き換えてもいいのですが)の楽しさとは、まず自分ありき。でも一人ではできないことを多数の市民と手を組む必要もあり。そして自分を大切にしながら手を組むみんなを大切にする必要を知る。そこから新しい人間関係、つまり自分をも他人をも大切にしながら、自分の立つべき位置を納得し、なおかつ一緒になって共通する課題に向って歩みつつ、課題を解決していく。そういう人間関係の楽しさを味わうことではないでしょうか。
難しいことだけど、これを知ったら市民活動をやめられなくなります。そういう人たちの力と知恵が切磋琢磨して、個々でする仕事の2倍にも3倍にもなる成果を発揮する協働という精神が育まれていくのだと思います。そして協働こそこれからの市民社会の大きな救いとなるとぼくは信じています。
市民ミュージカルに戻りますが、ぼくは役付きとかその他大勢いった言葉を使いません。台本上に名前は書いてありませんが、登場するどの役もが名前と人格を持つ一人として舞台に立たねば、テーマのしっかりした感動的な舞台には仕上がらないわけで、観客を感動させるという共通の課題に向って、ぼくらは新しい人間関係の楽しさをも学んでいくのではないでしょうか。
かっこよすぎるかしら?
ともかくせっかくの掲示板ですから、大いに意見を交わしましょう。まだまだ手をつけていないシーンがいっぱいあります。大いに交流を楽しみたいし、ドンドン稽古を進行させたいし、そしてせっかくの機会だから、出演する皆さんには「表現の本当の面白さ」をぜひとも味わってもらえるような稽古場にしたいし・・・いずれにせよ、燃える夏にしたいですね。
2008年06月20日
2008年06月17日
身体で理解する
14日・15日は二日連続の稽古。
家庭や仕事を持って、土日も稽古でつぶれてしまうと、本当に心身の休まる時間がなくなってしまう。出演者の皆さんは大変だろうと同情します。
でも、二日連続で稽古すると全然効果が違ってくる。歌でも踊りでも、2日にわたって身体に覚えこませると、「やった!」という記憶が刻みつく。仕事も勉強もそうですが、芸事もまた反復が大事です。何度も何度も繰り返すことで、少しずつ身体と心が新しい刺激に染まっていくのです。少しずつ少しずつ声が出る。身体が動く。イメージが浮かぶ。反復に飽きて、今何のために稽古しているかが見えなくなったときスランプが訪れます。その時でも、反復を繰り返していれば、壁の向こうに必ず見えてくる一瞬の気づきがあります。それが稽古です。
稽古とは発見です。それに気づいたとき、「もっと稽古を!」と欲がわいてきます。
「こんなの簡単だよ」と表現をバカにして稽古をサボろうとする人も中に入るでしょう。「稽古がもたもたして、つまらない」と文句をためている人もいるでしょう。テキパキ進行したいと指導陣も思っているのですが、稽古場ではどうしてもイメージと現実とのギャップが生まれます。そこで悩み、あせり、不安に落ち込みます。
でも実はそれが稽古なのです。テキパキ進行する場面は絶対つまらなくなる。もたもたオロオロしながら創りあげる稽古が本物です。稽古に悩み、稽古後のイメージの交換に、もう一度何かを発見して、また稽古に立ち向かう。それが創造です。
日曜日の前半で、貴志を始めとする日本の子どもたちの読み合わせの稽古をしました。皆台本を結構読み込んできていて、そして十分のやる気を見せてくれて、演出者を喜ばせてくれました。2幕で日本の子どもをぼろくそに言うことがますます不安になってきましたが、彼らがそうなのは自分で選んだ活動だからでしょう。
自分で決定する。自分で選んだという確信があれば、人は困難に立ち向かえるものです。人のせいにすることもなくなります。秋葉原の犯人の青年には、小さな時から、自分で決めるという体験がなかったのではないでしょうか。ほんとに、ちいなさうちから、どんな小さなことでも自分で選んでいく決めていくという体験が大事ですね。
ぼくがそれに気づいたのは、もう40も半ばの頃でした。思えば、文句たらたら、周囲を批判ばかりして、そのくせ自分では何一つ努力しなかったなさけない大人でした。でも少しは変われました。人間幾つになっても成長するものですね。
家庭や仕事を持って、土日も稽古でつぶれてしまうと、本当に心身の休まる時間がなくなってしまう。出演者の皆さんは大変だろうと同情します。
でも、二日連続で稽古すると全然効果が違ってくる。歌でも踊りでも、2日にわたって身体に覚えこませると、「やった!」という記憶が刻みつく。仕事も勉強もそうですが、芸事もまた反復が大事です。何度も何度も繰り返すことで、少しずつ身体と心が新しい刺激に染まっていくのです。少しずつ少しずつ声が出る。身体が動く。イメージが浮かぶ。反復に飽きて、今何のために稽古しているかが見えなくなったときスランプが訪れます。その時でも、反復を繰り返していれば、壁の向こうに必ず見えてくる一瞬の気づきがあります。それが稽古です。
稽古とは発見です。それに気づいたとき、「もっと稽古を!」と欲がわいてきます。
「こんなの簡単だよ」と表現をバカにして稽古をサボろうとする人も中に入るでしょう。「稽古がもたもたして、つまらない」と文句をためている人もいるでしょう。テキパキ進行したいと指導陣も思っているのですが、稽古場ではどうしてもイメージと現実とのギャップが生まれます。そこで悩み、あせり、不安に落ち込みます。
でも実はそれが稽古なのです。テキパキ進行する場面は絶対つまらなくなる。もたもたオロオロしながら創りあげる稽古が本物です。稽古に悩み、稽古後のイメージの交換に、もう一度何かを発見して、また稽古に立ち向かう。それが創造です。
日曜日の前半で、貴志を始めとする日本の子どもたちの読み合わせの稽古をしました。皆台本を結構読み込んできていて、そして十分のやる気を見せてくれて、演出者を喜ばせてくれました。2幕で日本の子どもをぼろくそに言うことがますます不安になってきましたが、彼らがそうなのは自分で選んだ活動だからでしょう。
自分で決定する。自分で選んだという確信があれば、人は困難に立ち向かえるものです。人のせいにすることもなくなります。秋葉原の犯人の青年には、小さな時から、自分で決めるという体験がなかったのではないでしょうか。ほんとに、ちいなさうちから、どんな小さなことでも自分で選んでいく決めていくという体験が大事ですね。
ぼくがそれに気づいたのは、もう40も半ばの頃でした。思えば、文句たらたら、周囲を批判ばかりして、そのくせ自分では何一つ努力しなかったなさけない大人でした。でも少しは変われました。人間幾つになっても成長するものですね。
2008年06月10日
いけいけ ドンドン!
今週の稽古はどういうわけか7日の土曜日のみ。
土曜日というのは、子どもにとっては授業や部活など、結構忙しい日なんですね。2割り近くの欠席者が出ました。
午前中は美術プランナーとの打ち合わせ。基本的なプランは仕上がっているのですが、まだ詳細を詰めています。心配なのは結構作り物が多いこと。予算的にすべてを外部に発注するわけには行かないので、たくさんの市民協力者の手で飾り物や幕などの手作りに追われそうです。小道具なども結構作り物が多いし、はたしてそれだけの人材が集まるものかしら。ステージマネージャの北川さんの悲鳴が聞こえてきそうです。
午後の稽古で、配役をほぼ決定しました。間違えて発表してはいけないので気を使うシーンです。それぞれの出番も確認して1時間半もかかってしまいました。
6月は、歌とダンスをどんどん覚えていく月。今月中にすべての曲の音取りを仕上げて、来月は演技と絡めて、という風に行きたいのだけれど、はたして達成できるか。ともかくドンドン行きましょう!
ところで、いちぶんネットのもう一つの事業、障害のある子を真ん中に楽しくやろうというチャレンジド・ミュージカルの出演者に、日本テレビの恒例番組「愛は地球を救う!」24時間テレビから、出演のオファーが来ました。びっくりしました。
日本武道館で公演でもしろというのか?とちょっと緊張しましたが、良く聞くとタレントと一緒にたくさんの子どもたちが合唱する企画だそうです。しかしその期日が8月30日と31日。なんと市民ミュージカル公演本番とぶつかってしまいました。
まだ、どうなっていくか全く不明ですが、まあせっかくの機会だから、子どもたちの最善の利益を考えていこうと思っています。
なにやら、恐るべき多忙な夏となる気配。何、かまうことねえ。いけいけ、ドンドン!です。
土曜日というのは、子どもにとっては授業や部活など、結構忙しい日なんですね。2割り近くの欠席者が出ました。
午前中は美術プランナーとの打ち合わせ。基本的なプランは仕上がっているのですが、まだ詳細を詰めています。心配なのは結構作り物が多いこと。予算的にすべてを外部に発注するわけには行かないので、たくさんの市民協力者の手で飾り物や幕などの手作りに追われそうです。小道具なども結構作り物が多いし、はたしてそれだけの人材が集まるものかしら。ステージマネージャの北川さんの悲鳴が聞こえてきそうです。
午後の稽古で、配役をほぼ決定しました。間違えて発表してはいけないので気を使うシーンです。それぞれの出番も確認して1時間半もかかってしまいました。
6月は、歌とダンスをどんどん覚えていく月。今月中にすべての曲の音取りを仕上げて、来月は演技と絡めて、という風に行きたいのだけれど、はたして達成できるか。ともかくドンドン行きましょう!
ところで、いちぶんネットのもう一つの事業、障害のある子を真ん中に楽しくやろうというチャレンジド・ミュージカルの出演者に、日本テレビの恒例番組「愛は地球を救う!」24時間テレビから、出演のオファーが来ました。びっくりしました。
日本武道館で公演でもしろというのか?とちょっと緊張しましたが、良く聞くとタレントと一緒にたくさんの子どもたちが合唱する企画だそうです。しかしその期日が8月30日と31日。なんと市民ミュージカル公演本番とぶつかってしまいました。
まだ、どうなっていくか全く不明ですが、まあせっかくの機会だから、子どもたちの最善の利益を考えていこうと思っています。
なにやら、恐るべき多忙な夏となる気配。何、かまうことねえ。いけいけ、ドンドン!です。
2008年06月03日
そんなにあせっても・・・!
5月の稽古が終わりました。
半分はオーディションとオープニング儀式となって、実質の稽古は3日間ですが、どうだったでしょうか?
お芝居は時間芸術といわれるように、時間との闘いです。決められた期日までに作品を完成させねばならないので、指導者サイドはいつも不安と焦りとの戦いを強いられます。
今回は、作曲が遅れていて、振付陣を筆頭に、イメージを豊かに膨らませる時間がなくて、どうしてもあせりの色が深くなります。全体指揮の演出者であるぼくもかなりイライラしているのに自分でも気づいています。
稽古場で、周りのスタッフにきつい言葉を吐いてしまって、いやな気分にさせています。同じ市民なのに、そんな態度でいいわけがありません。歳のせいか、年々イライラ感が増していくのをどうすればいいのでしょう?
と、愚痴はさておき、あせって仕事をしても何の成果も得られません。第一稽古が面白くなくなる。という訳で、来週からは心を入れ替えて、楽しく厳しくやっていきましょう。
来週には配役も決まります。これまでは歌とダンスを先行して進めてきましたが、これからは演出先導で、場面ごとの動きとセリフを決めて行きながら、皆さんに場面の理解を深めてもらって、それに歌とダンスを絡めていくという作業にしていきましょう。
2幕の、親の立場の主張や子どもからの主張のシーンなど、どんどん稽古に入って、稽古場でお互いの考えを語り合うという風な稽古ができればいいですね。普段親は子どもたちにどんな言葉を投げかけているか、子どもたちはどのように反発したりしているかなど、市川の親子の本音のセリフが生まれてきたら、きっと楽しいでしょうね。
それと、皆さんから貧しい国の子どもたちの資料が寄せられてきています。働く子どもやストリートチルドレンの生活ぶりを、ぜひ市川の子どもたちに理解してもらいたいと思っています。いつか、誰かお話してくれる人を招いて、みんなで理解を深める機会を持ちたいと考えています。
演技を上手になっていくことも大事ですが、こうして実感としてお芝居の世界を理解する工夫が、稽古場での大事な時間でもあるのです。
いよいよ6月の稽古。あくまでもあせらず、楽しく、厳しく、稽古を面白がっていきましょう。
稽古場の神様、イライラをお鎮めください。
半分はオーディションとオープニング儀式となって、実質の稽古は3日間ですが、どうだったでしょうか?
お芝居は時間芸術といわれるように、時間との闘いです。決められた期日までに作品を完成させねばならないので、指導者サイドはいつも不安と焦りとの戦いを強いられます。
今回は、作曲が遅れていて、振付陣を筆頭に、イメージを豊かに膨らませる時間がなくて、どうしてもあせりの色が深くなります。全体指揮の演出者であるぼくもかなりイライラしているのに自分でも気づいています。
稽古場で、周りのスタッフにきつい言葉を吐いてしまって、いやな気分にさせています。同じ市民なのに、そんな態度でいいわけがありません。歳のせいか、年々イライラ感が増していくのをどうすればいいのでしょう?
と、愚痴はさておき、あせって仕事をしても何の成果も得られません。第一稽古が面白くなくなる。という訳で、来週からは心を入れ替えて、楽しく厳しくやっていきましょう。
来週には配役も決まります。これまでは歌とダンスを先行して進めてきましたが、これからは演出先導で、場面ごとの動きとセリフを決めて行きながら、皆さんに場面の理解を深めてもらって、それに歌とダンスを絡めていくという作業にしていきましょう。
2幕の、親の立場の主張や子どもからの主張のシーンなど、どんどん稽古に入って、稽古場でお互いの考えを語り合うという風な稽古ができればいいですね。普段親は子どもたちにどんな言葉を投げかけているか、子どもたちはどのように反発したりしているかなど、市川の親子の本音のセリフが生まれてきたら、きっと楽しいでしょうね。
それと、皆さんから貧しい国の子どもたちの資料が寄せられてきています。働く子どもやストリートチルドレンの生活ぶりを、ぜひ市川の子どもたちに理解してもらいたいと思っています。いつか、誰かお話してくれる人を招いて、みんなで理解を深める機会を持ちたいと考えています。
演技を上手になっていくことも大事ですが、こうして実感としてお芝居の世界を理解する工夫が、稽古場での大事な時間でもあるのです。
いよいよ6月の稽古。あくまでもあせらず、楽しく、厳しく、稽古を面白がっていきましょう。
稽古場の神様、イライラをお鎮めください。
2008年05月31日
自分たちの町を知る
“行徳富士”を知っている方が意外と少ない。稽古場で聞いても1割もいなかったですね。
高度経済成長著しい頃、行徳の江戸川河口の沼地が建築残土の捨て場となり、いつの間にか20mほどの山が出来上がってしまいました。
ぼくが西船橋に移り住んで20余年、子どもが産まれ、アパートを追い出されて市川に移ってきたのですが、その頃の江戸川河口はまだレンコン畑がある沼地で、イタチのような動物が走り回っていたものでした。
周りがどんどん埋めたれられて新築の家並みが揃い、行徳富士の土を三番瀬に埋め立てるとか、下水の終末処理場を建設するとかの話が起こった頃には、債権者の怖い人たちが絡まってきていたりして、なかなか解決策が見つからないまま現在に至っているのです。市長は「既に基本的な解決を見た」といっていましたが。
ともかく今回の舞台は行徳富士です。いちかわ市民ミュージカルは、いつも市川に縁のある話を素材に取り上げてきました。「自分たちの町を知ろう」という目的があるからです。
02年の第1回公演「いちかわ真夏の夜の夢」は、市役所前にある“藪しらずの森”をイメージして、解体されてマンションに建て替えられようとしている市内の大きな家の森に迷い込んだ子どもたちの冒険物語でした。登場する千年も生きているスダジイとスダバアという神様が「命はつながっている!」と叫ぶのでした。
04年の第2回公演「手鞠歌風にのって」は宮久保にあった“袖翔けの松”が舞台でした。昔あの辺りは難儀な坂道で、滑って転んだ人に災難が降りかかるという言い伝えを恐れて、みな松に着物の袖をちぎって翔けたというところから袖翔けの松伝説が生まれたのですが、昭和25年、道路拡張の犠牲になって、その松が伐採された時、近くで遊んでいた少女がひとり、誤って倒れた松の下敷きになって亡くなった。それを悔やんだ責任者の棟梁が苦しみの果てに小学校の用務員さんになって子どもたちの成長を見守ったという事実を舞台化したものです。稽古中に妙に捻挫したりする人が続いて、皆でお参りに言った覚えがあります。
第3回目「夏の光」は“中山競馬場”が舞台でした。競馬狂いの兄を追って競馬場に迷い込んだ家族が馬の亡霊と出会う怖い話です。そこには戦争中の恐ろしい悲劇が秘められていたのです。
長い話になるので、この辺で結論。自分たちの町の歴史を知るということが大事だと思うのです。私たちのほとんどは他所から移住してきた家族です。誰かが言っていました、「自分の町でこんなことがあったのかと知ることで、この街が好きになった」と。
この町を好きになってほしい。そして、市民ミュージカルの長い熱い稽古と本番を体験する仲間として、出会った知らない者どうしが仲良くなってもらいたい。たくさんの市民の方に見に来てもらって、もっともっと大きなつながりの中で生活していきたい。街中で子どもと大人が「こんにちわ!」と挨拶を交し合う町ってすてきじゃないか!
市民ミュージカルはそういう目的で運営されていきます。でもその前提に、何よりもやっていることが面白くてたまらないということが大切です。「面白いことをやってれば人は元気になる」「面白いことには人が集まってくる」・・・ぼくのスローガンです。
さあ、明日からの稽古を存分に面白がりましょう!
高度経済成長著しい頃、行徳の江戸川河口の沼地が建築残土の捨て場となり、いつの間にか20mほどの山が出来上がってしまいました。
ぼくが西船橋に移り住んで20余年、子どもが産まれ、アパートを追い出されて市川に移ってきたのですが、その頃の江戸川河口はまだレンコン畑がある沼地で、イタチのような動物が走り回っていたものでした。
周りがどんどん埋めたれられて新築の家並みが揃い、行徳富士の土を三番瀬に埋め立てるとか、下水の終末処理場を建設するとかの話が起こった頃には、債権者の怖い人たちが絡まってきていたりして、なかなか解決策が見つからないまま現在に至っているのです。市長は「既に基本的な解決を見た」といっていましたが。
ともかく今回の舞台は行徳富士です。いちかわ市民ミュージカルは、いつも市川に縁のある話を素材に取り上げてきました。「自分たちの町を知ろう」という目的があるからです。
02年の第1回公演「いちかわ真夏の夜の夢」は、市役所前にある“藪しらずの森”をイメージして、解体されてマンションに建て替えられようとしている市内の大きな家の森に迷い込んだ子どもたちの冒険物語でした。登場する千年も生きているスダジイとスダバアという神様が「命はつながっている!」と叫ぶのでした。
04年の第2回公演「手鞠歌風にのって」は宮久保にあった“袖翔けの松”が舞台でした。昔あの辺りは難儀な坂道で、滑って転んだ人に災難が降りかかるという言い伝えを恐れて、みな松に着物の袖をちぎって翔けたというところから袖翔けの松伝説が生まれたのですが、昭和25年、道路拡張の犠牲になって、その松が伐採された時、近くで遊んでいた少女がひとり、誤って倒れた松の下敷きになって亡くなった。それを悔やんだ責任者の棟梁が苦しみの果てに小学校の用務員さんになって子どもたちの成長を見守ったという事実を舞台化したものです。稽古中に妙に捻挫したりする人が続いて、皆でお参りに言った覚えがあります。
第3回目「夏の光」は“中山競馬場”が舞台でした。競馬狂いの兄を追って競馬場に迷い込んだ家族が馬の亡霊と出会う怖い話です。そこには戦争中の恐ろしい悲劇が秘められていたのです。
長い話になるので、この辺で結論。自分たちの町の歴史を知るということが大事だと思うのです。私たちのほとんどは他所から移住してきた家族です。誰かが言っていました、「自分の町でこんなことがあったのかと知ることで、この街が好きになった」と。
この町を好きになってほしい。そして、市民ミュージカルの長い熱い稽古と本番を体験する仲間として、出会った知らない者どうしが仲良くなってもらいたい。たくさんの市民の方に見に来てもらって、もっともっと大きなつながりの中で生活していきたい。街中で子どもと大人が「こんにちわ!」と挨拶を交し合う町ってすてきじゃないか!
市民ミュージカルはそういう目的で運営されていきます。でもその前提に、何よりもやっていることが面白くてたまらないということが大切です。「面白いことをやってれば人は元気になる」「面白いことには人が集まってくる」・・・ぼくのスローガンです。
さあ、明日からの稽古を存分に面白がりましょう!
2008年05月27日
みんなはどう思っているのだろう?
本格的な稽古開始2日目は、みんなで輪になって「台本読み合わせ」を行いました。
小さな子どもたちも、思いがけずひょいと「役を読め」と言われて、びっくりしてました。感心なことが二つ。一つは、休みを含んで3時間近く、子どもたちが熱心に台本を見、声に聞き入っていたこと。読めない字や難しい表現もあって、かなりしんどい時間だったろうに、良く我慢してくれました。それと、子どもたちが役を与えられた時に、そっと寄添ってサポートする人がいたこと。僕は考えていなかったことで、自然にそういうサポートができる体制になっていることに、市民ミュージカル公演の経験が蓄積されていると感じました。
台本の世界を説明するのに、時間はいくらでもかかります。いい足りなかった所は、これからの稽古で、各場面ごとにまず表現すべき方向性を必ず確認して、稽古に入るようにしていきましょう。
ところで、皆さんは台本をどう読み取られたでしょうか?
まず面白いと思ったか、面白くないと思ったか? 気になるところです。
そして2幕の、親と子どもたちの思いをぶつけ合うシーン。ぼくが日本の子どもたちの現実をどうも否定的に描きすぎたかなと不安がよぎったのは、目の前にいる子どもたちが熱心に稽古に打ち込む姿を見せつけられたからです。「そう否定したものでもないぞ」と思ってしまいました。
そして実際稽古場にいる親たちはどう思っているんでしょう? 自分の子どもに対して、普段はどう向き合っているのでしょう?
一般的には、日本の子どもたちが良く口にする言葉は台本が書いている通りです。「何もしたくない」「ボケーとしたい」「寝たい」という逃避的な思いです。そこを超えて、もっと楽しく、思い切り生を面白がって生きてほしいと願うし、親たちにもぜひ「子どもにも人間としての権利がある」ことを理解してほしいと願っているのですが、そしてその思いがこのミュージカルのテーマでもあるのですが、そこへの本音の共感が得られるものか、正直不安があります。
稽古場で、どんどん話し合いを進めていきましょう。大人と子どもが、「どういう関係を作っていくか」という話し合いを深めていければ、この公演は成功します。形ばかりでなく、舞台の最後で、心の底から「世界中の子どもたちを愛で包もう!」と主張できたら嬉しいなあ!
小さな子どもたちも、思いがけずひょいと「役を読め」と言われて、びっくりしてました。感心なことが二つ。一つは、休みを含んで3時間近く、子どもたちが熱心に台本を見、声に聞き入っていたこと。読めない字や難しい表現もあって、かなりしんどい時間だったろうに、良く我慢してくれました。それと、子どもたちが役を与えられた時に、そっと寄添ってサポートする人がいたこと。僕は考えていなかったことで、自然にそういうサポートができる体制になっていることに、市民ミュージカル公演の経験が蓄積されていると感じました。
台本の世界を説明するのに、時間はいくらでもかかります。いい足りなかった所は、これからの稽古で、各場面ごとにまず表現すべき方向性を必ず確認して、稽古に入るようにしていきましょう。
ところで、皆さんは台本をどう読み取られたでしょうか?
まず面白いと思ったか、面白くないと思ったか? 気になるところです。
そして2幕の、親と子どもたちの思いをぶつけ合うシーン。ぼくが日本の子どもたちの現実をどうも否定的に描きすぎたかなと不安がよぎったのは、目の前にいる子どもたちが熱心に稽古に打ち込む姿を見せつけられたからです。「そう否定したものでもないぞ」と思ってしまいました。
そして実際稽古場にいる親たちはどう思っているんでしょう? 自分の子どもに対して、普段はどう向き合っているのでしょう?
一般的には、日本の子どもたちが良く口にする言葉は台本が書いている通りです。「何もしたくない」「ボケーとしたい」「寝たい」という逃避的な思いです。そこを超えて、もっと楽しく、思い切り生を面白がって生きてほしいと願うし、親たちにもぜひ「子どもにも人間としての権利がある」ことを理解してほしいと願っているのですが、そしてその思いがこのミュージカルのテーマでもあるのですが、そこへの本音の共感が得られるものか、正直不安があります。
稽古場で、どんどん話し合いを進めていきましょう。大人と子どもが、「どういう関係を作っていくか」という話し合いを深めていければ、この公演は成功します。形ばかりでなく、舞台の最後で、心の底から「世界中の子どもたちを愛で包もう!」と主張できたら嬉しいなあ!
2008年05月22日
台本読み合わせ
さて25日の稽古は「台本読み合わせ」です。
台本を読む・・・これはわかりますね? 声に出して台本を読んでいくのです。
読み合わせ・・・一人ではない、みんなで役を担当して読んでいくのです。各場面ごとに、なるべく多くの人に役を振り分けて、声に出して読んでいってもらいます。その俳優さんがその役に合うかどうか、他の人とのバランスはどうか、声の質や持ってる雰囲気なども考えながら、役やシーンのイメージを高めていきます。それを通して、配役決定の材料にもしていきます(第2次選考)。
台本を理解する・・・各場面ごとに、どういうシーンかを確認します。そして俳優さんは何をしなければならないか、何を明確に表現しなければならないか、誰が登場し何をして消えていくのか、舞台セットはどうなっているか、などなど、みんなで理解しあいます。
その上大事なことはテーマの確認です。テーマとはこのミュージカルの訴える一番肝心な内容。出演者全員がそれを共通の思いにして、それに向って各シーンを作り上げ、観客に訴える中身です。テーマが明確に舞台から訴えられ、観客の心に深く刻み込まれなければ、ミュージカルは成功したといいません。
最初から最後までの各場面ごとの小テーマと、それが絡み合い重なり合って全体として浮かび上がる大テーマとがあります。
全員に役を振り分けていたら、それだけで1日がすぎてしまうので、主な役以外は演出部の皆さんで読み分けます。25日の稽古では、皆さんは自分がどの役につくのか(実は一番関心のあることでしょうが)よりも、ともかく台本の書かれた世界を理解することに徹します。
こうした作業は、前回は稽古中盤で、前々回はほとんど後半で、やった作業です。その時皆さんは、歌唱やダンスの部分稽古(抜き稽古)を優先していって、稽古中盤になって、「アア、自分の稽古してきたシーンはこういう全体シーンになるのか!」と驚かれた方も多かったようです。
今回は、最初から全員で読み合わせと理解する稽古から入ります。そして、その後は各グループごとの抜き稽古に入っていきます。創作の目的が明確にあったほうが稽古しやすいでしょうからね。
というわけで、前回の稽古終了時にも言ったように、台本をしっかり読んできてください。役を読まされてわからない字に戸惑うことのないようにお願いします。
では25日の稽古を楽しみに!
台本を読む・・・これはわかりますね? 声に出して台本を読んでいくのです。
読み合わせ・・・一人ではない、みんなで役を担当して読んでいくのです。各場面ごとに、なるべく多くの人に役を振り分けて、声に出して読んでいってもらいます。その俳優さんがその役に合うかどうか、他の人とのバランスはどうか、声の質や持ってる雰囲気なども考えながら、役やシーンのイメージを高めていきます。それを通して、配役決定の材料にもしていきます(第2次選考)。
台本を理解する・・・各場面ごとに、どういうシーンかを確認します。そして俳優さんは何をしなければならないか、何を明確に表現しなければならないか、誰が登場し何をして消えていくのか、舞台セットはどうなっているか、などなど、みんなで理解しあいます。
その上大事なことはテーマの確認です。テーマとはこのミュージカルの訴える一番肝心な内容。出演者全員がそれを共通の思いにして、それに向って各シーンを作り上げ、観客に訴える中身です。テーマが明確に舞台から訴えられ、観客の心に深く刻み込まれなければ、ミュージカルは成功したといいません。
最初から最後までの各場面ごとの小テーマと、それが絡み合い重なり合って全体として浮かび上がる大テーマとがあります。
全員に役を振り分けていたら、それだけで1日がすぎてしまうので、主な役以外は演出部の皆さんで読み分けます。25日の稽古では、皆さんは自分がどの役につくのか(実は一番関心のあることでしょうが)よりも、ともかく台本の書かれた世界を理解することに徹します。
こうした作業は、前回は稽古中盤で、前々回はほとんど後半で、やった作業です。その時皆さんは、歌唱やダンスの部分稽古(抜き稽古)を優先していって、稽古中盤になって、「アア、自分の稽古してきたシーンはこういう全体シーンになるのか!」と驚かれた方も多かったようです。
今回は、最初から全員で読み合わせと理解する稽古から入ります。そして、その後は各グループごとの抜き稽古に入っていきます。創作の目的が明確にあったほうが稽古しやすいでしょうからね。
というわけで、前回の稽古終了時にも言ったように、台本をしっかり読んできてください。役を読まされてわからない字に戸惑うことのないようにお願いします。
では25日の稽古を楽しみに!
2008年05月19日
成功の予感
稽古初日、会場は250名の関係者が集まって、早くも熱気ムンムン。
「いやあ、面白かった!」「公演はゼッタイ成功する!」と確信しました。その根拠をこれから述べます。
出演者の顔つきが違います。意欲にあふれているし集中力があります。半分以上が初参加なのに、戸惑う様子がない。アレヨ!アレヨ!という間に、稽古に没頭してしまっています。小学3年生4年生の小さな子どもまでが、だれることなく最後まで集中した姿は感動です。以前もこうだったかな? ともかく無駄のない集中した稽古初日でした。
「オープニングの儀式」・・・実行委員の皆さんが、一生懸命下手な踊りやアピールを披露して、何とか公演を盛り上げようとしてくれているのが、参加者の皆さんにも通じたようです。
そこから「オリエンテーション」で、稽古中の問題点を整理して、「ゲーム」で紹介と連帯感を組み立てる。ぼくは補充オーディションの方に出向いていて、中身を見れませんでしたが、戻ってきた時の雰囲気でわかりました。会場中に軽い興奮がありました。指導した買場さんという人は全く逸材です。マイクを持たせると途中で何を言いたいのかわからなくなって「気持ちはわかったから、もっと手短に」と注文付けたくなるんだけど、こういう才能はそう誰もが持っているものではありません。買場さん万歳!
1時間の合唱稽古・・・佐治さんの指導で、最初の合唱稽古。声の質で200人以上の出演者をグループごとに分けていく手際の良さ! そこからメロディーを叩き込んでコーラスへと発展させる手法は見事です。曲の3分の一しか稽古できなかったけれど、もう後は十分。
曲の上がりが遅くて、楽譜を目にしたのは1日前。佐治さんもピアノ伴奏の平家さんも、苦情を飲み込んで稽古という時間に集中しています。次回からは2時間枠の稽古時間を保証して、1曲づつ物にしていきましょう。
1時間のダンス稽古・・・「音楽も上がってないし、まずは試しをやってみよう。架空の国ダッハレムはバリ島の雰囲気を持つかもしれない。ケチャを楽しんでみよう」。ぼくからの事前の注文はこれだけでした。
小学生から大人まで、何重もの輪になって、何かが始まった。見る見る形になって、ちょっとしたシーンが形になりました。たった1時間で。松木さんの、決して強引ではなく皆を引っ張り込むソフトな、それでいていつの間にか夢中にさせる手腕には敬服です。
子どもたちが意外な力強さで身体と楽しんでいます。オーディションの短い時間では決して見えなかった可能性がそこから沸き立ちました。ぼくは調査カードを手にしながら、「まだまだ見えてくる。配役をあせってはいけない」と肝に銘じました。
稽古終了後は、会場を中央公民館に移して、指導者とスタッフの会議。稽古を進めるに当たっての事前打ち合わせ。腹も減った。ビールも飲みたい。早く帰って子どもの世話もある。仕方ないから2時間の会議。
いい会議でした。今までもやもやしていた段取りが見えてきました。舞台監督の末永さんの指導もあって、市民スタッフの一人一人に自分の位置が見えてきたようです。終わったのが8時半。どういうわけか全員家路へと急ぐ感じ。ぼくも自転車こいで一人寂しく帰宅しました。
この調子で、稽古を思い切り楽しみましょう。稽古場の神様、よろしくお見守りください!
次回の稽古は、全員揃っての台本の読み合わせ。その詳細については今週末のヨッシー・ノートを覗いてください。
「いやあ、面白かった!」「公演はゼッタイ成功する!」と確信しました。その根拠をこれから述べます。
出演者の顔つきが違います。意欲にあふれているし集中力があります。半分以上が初参加なのに、戸惑う様子がない。アレヨ!アレヨ!という間に、稽古に没頭してしまっています。小学3年生4年生の小さな子どもまでが、だれることなく最後まで集中した姿は感動です。以前もこうだったかな? ともかく無駄のない集中した稽古初日でした。
「オープニングの儀式」・・・実行委員の皆さんが、一生懸命下手な踊りやアピールを披露して、何とか公演を盛り上げようとしてくれているのが、参加者の皆さんにも通じたようです。
そこから「オリエンテーション」で、稽古中の問題点を整理して、「ゲーム」で紹介と連帯感を組み立てる。ぼくは補充オーディションの方に出向いていて、中身を見れませんでしたが、戻ってきた時の雰囲気でわかりました。会場中に軽い興奮がありました。指導した買場さんという人は全く逸材です。マイクを持たせると途中で何を言いたいのかわからなくなって「気持ちはわかったから、もっと手短に」と注文付けたくなるんだけど、こういう才能はそう誰もが持っているものではありません。買場さん万歳!
1時間の合唱稽古・・・佐治さんの指導で、最初の合唱稽古。声の質で200人以上の出演者をグループごとに分けていく手際の良さ! そこからメロディーを叩き込んでコーラスへと発展させる手法は見事です。曲の3分の一しか稽古できなかったけれど、もう後は十分。
曲の上がりが遅くて、楽譜を目にしたのは1日前。佐治さんもピアノ伴奏の平家さんも、苦情を飲み込んで稽古という時間に集中しています。次回からは2時間枠の稽古時間を保証して、1曲づつ物にしていきましょう。
1時間のダンス稽古・・・「音楽も上がってないし、まずは試しをやってみよう。架空の国ダッハレムはバリ島の雰囲気を持つかもしれない。ケチャを楽しんでみよう」。ぼくからの事前の注文はこれだけでした。
小学生から大人まで、何重もの輪になって、何かが始まった。見る見る形になって、ちょっとしたシーンが形になりました。たった1時間で。松木さんの、決して強引ではなく皆を引っ張り込むソフトな、それでいていつの間にか夢中にさせる手腕には敬服です。
子どもたちが意外な力強さで身体と楽しんでいます。オーディションの短い時間では決して見えなかった可能性がそこから沸き立ちました。ぼくは調査カードを手にしながら、「まだまだ見えてくる。配役をあせってはいけない」と肝に銘じました。
稽古終了後は、会場を中央公民館に移して、指導者とスタッフの会議。稽古を進めるに当たっての事前打ち合わせ。腹も減った。ビールも飲みたい。早く帰って子どもの世話もある。仕方ないから2時間の会議。
いい会議でした。今までもやもやしていた段取りが見えてきました。舞台監督の末永さんの指導もあって、市民スタッフの一人一人に自分の位置が見えてきたようです。終わったのが8時半。どういうわけか全員家路へと急ぐ感じ。ぼくも自転車こいで一人寂しく帰宅しました。
この調子で、稽古を思い切り楽しみましょう。稽古場の神様、よろしくお見守りください!
次回の稽古は、全員揃っての台本の読み合わせ。その詳細については今週末のヨッシー・ノートを覗いてください。
2008年05月16日
ドキドキの大切さ
オーディションが終了しました。
2日間にわたって200名以上の参加がありました。
みんなすごい緊張振り。居並ぶたくさんの審査員の前で、たった一人、オーディションラインに立って、課題曲を歌い、演技をするのですから、緊張するのは当たり前。審査員まで緊張してるから、ブスッとした表情で待ちかまえる感じになって、中には「もっとにこやかに迎えてくれたらいいのに!」と反発した人もいたようですが、僕はアレでいいと思うんです。緊張を楽しむことが大事です。
家ではあれやこれや工夫して練習してきたのに、いざとなると体はコチコチ、声は上ずっていつもの自分の声じゃない。途中で止められたら「だめだったからじゃないか」と落ち込んでしまう。ああいう緊張って、生きていてもそうあるものじゃない。緊張と弛緩(しかん)といって、1日の間でも1年の間でも一生の間でも、ゆったりとした時間と激しく生きる時間とが交替に現れるから、いいんですよね。生きてる!って感じになる。
せっかく演技の稽古をしてきたのに小学5年生はカットされちゃったこと、時間に追われて急にそうなったんだけど、悪いことしたと反省しています。ごめんなさい。
今回調査カードを用意してくれて、みんなが事情を書き込んでくれたので、面接もほとんど省いてしまいました。これも残念。でもこれは時間がなかったから仕方ないと思ってます。
リピーターの人はやはり上手になっていたのに驚きました。工夫しようという気構えがある。これが大事。これが嬉しい。演技なんて、言われたことを言われたように繰り返したって何の意味もない。そこに自分の工夫が必要です。それがあって始めて演技する楽しさが実感できるのです。これからの稽古でも、演出からの注文を2倍にも3倍にも膨らませてこちらをびっくり驚かせてください。
落ちた人はいるのかな? もしいたら残念、それも人生です。
イメージどおりの配役ができそうか? これは難しい。本当に、役を決めるという作業はとても難しいのです。その人がどんな才能があるかは長い稽古で付き合ってやっとわかるもの。今までだって、配役に失敗したなと思う経験は山ほどあります。その逆、期待してなかった人がすごくよかったりということも。演出として理想的なのは、何人かの候補者に最後まで稽古してもらって競争してもらって、舞台に上る直前に最終決定できることです。プロの世界ではそれをやっていますが、市民ミュージカルではちょっと残酷。
というわけで、稽古期間も短いし、なるべく早く第2次選考をして配役を決めていこうと思います。
オーディション合格者にはもう通知が届いているでしょう。18日に集まってもらって台本と楽譜が渡されます。次の25日には、まず全員で台本を読み合わせて、これからどういう舞台を創っていくのかを確認しあいます。
さあ、熱く長い市民ミュージカルの夏が始まります。このヨッシー・ノートも最低3日に一度は更新していきます。ぜひチェックしてください。
みなさん、よろしくお願いします。
2日間にわたって200名以上の参加がありました。
みんなすごい緊張振り。居並ぶたくさんの審査員の前で、たった一人、オーディションラインに立って、課題曲を歌い、演技をするのですから、緊張するのは当たり前。審査員まで緊張してるから、ブスッとした表情で待ちかまえる感じになって、中には「もっとにこやかに迎えてくれたらいいのに!」と反発した人もいたようですが、僕はアレでいいと思うんです。緊張を楽しむことが大事です。
家ではあれやこれや工夫して練習してきたのに、いざとなると体はコチコチ、声は上ずっていつもの自分の声じゃない。途中で止められたら「だめだったからじゃないか」と落ち込んでしまう。ああいう緊張って、生きていてもそうあるものじゃない。緊張と弛緩(しかん)といって、1日の間でも1年の間でも一生の間でも、ゆったりとした時間と激しく生きる時間とが交替に現れるから、いいんですよね。生きてる!って感じになる。
せっかく演技の稽古をしてきたのに小学5年生はカットされちゃったこと、時間に追われて急にそうなったんだけど、悪いことしたと反省しています。ごめんなさい。
今回調査カードを用意してくれて、みんなが事情を書き込んでくれたので、面接もほとんど省いてしまいました。これも残念。でもこれは時間がなかったから仕方ないと思ってます。
リピーターの人はやはり上手になっていたのに驚きました。工夫しようという気構えがある。これが大事。これが嬉しい。演技なんて、言われたことを言われたように繰り返したって何の意味もない。そこに自分の工夫が必要です。それがあって始めて演技する楽しさが実感できるのです。これからの稽古でも、演出からの注文を2倍にも3倍にも膨らませてこちらをびっくり驚かせてください。
落ちた人はいるのかな? もしいたら残念、それも人生です。
イメージどおりの配役ができそうか? これは難しい。本当に、役を決めるという作業はとても難しいのです。その人がどんな才能があるかは長い稽古で付き合ってやっとわかるもの。今までだって、配役に失敗したなと思う経験は山ほどあります。その逆、期待してなかった人がすごくよかったりということも。演出として理想的なのは、何人かの候補者に最後まで稽古してもらって競争してもらって、舞台に上る直前に最終決定できることです。プロの世界ではそれをやっていますが、市民ミュージカルではちょっと残酷。
というわけで、稽古期間も短いし、なるべく早く第2次選考をして配役を決めていこうと思います。
オーディション合格者にはもう通知が届いているでしょう。18日に集まってもらって台本と楽譜が渡されます。次の25日には、まず全員で台本を読み合わせて、これからどういう舞台を創っていくのかを確認しあいます。
さあ、熱く長い市民ミュージカルの夏が始まります。このヨッシー・ノートも最低3日に一度は更新していきます。ぜひチェックしてください。
みなさん、よろしくお願いします。
2008年03月22日
ASIAN BLUE! アジアの青い空 台本に沿って 二幕
二幕
1場「日本の家族」
4つの、それぞれ独立した家庭が浮かび上がる。
家具や飾りをどこまでするか、こだわりはないが、何もないわけには行かないだろう。
取り囲むように、日本の親たちが登場して合唱する。
同時に、ダッハレムの子どもたちが襲い来る。彼らが興味津々となるためには、意外と家具を飾った方が生きるかもしれない。ワゴンを裏返すと、行徳駅前の飾りに使えないか?
場面の終わり、親たちはM19「市川メタボ」を合唱しつつ前に進む。紗幕が降りてくる。転換
2場「市川メタボ」
歌振り程度のダンス。間奏とともに紗幕が飛んで、行徳駅前のにぎやかさ。
簡単な吊り込みセットで、にぎやかさを強調。
M20「ここなら生きていける」は歌振り程度。
3場「日本の子どもたち」
紗幕前を想定。
4場「江戸川河口」
紗幕から山腹へ
各集団の配置が難しい。日本の大人たちは、高みから出て、ダッハレムの子どもたちを見下ろしたい。
M21「私たちを知ってください」は歌で勝負。
5場「駅頭」
紗幕前。
それぞれ手製のプラカード、のぼりを作成。
日本の子ども集団は、1幕のゴミ山の子どもたちの半分を当てる。
6場「江戸川河口」
M22「学校」
子ども出演者を半分に分けて、日本の子どもたちとダッハレムの子どもたちの歌合戦。
ダンス付。間奏が必要か?
M23「注文合戦」
稽古場で聞きだした子どもたちと親の本音が、ラップの形でぶつかり合うようなら成功だが、はたして面白い場面になるか不安。
集団の配置(ミザーンス)もかなり難しそう。
M24「子どもとはなんだ?」も歌いこなしたい。
M25「見放された子」は、周囲を落としてサス明かりで勝負。バイオリン(舞台登場)のみの演奏。泣かせたい。
M26「いつか!」も合唱勝負。
二幕に入ってからは合唱中心になるのが気になるが、時間的にも稽古量も難しい。
二つの子ども集団が分かれ、ダッハレム組は舞台の高みへ。強烈な光に包まれて、消えていく。
エピローグ
どういうわけか、ここでアフリカ・コンゴの人間(BBモフラン)が登場する。
太鼓を鳴らしながら、客席から舞台高みへ。
袖裏の声と掛け合って、子猫集団登場。(年長児〜小2 80名)
アジアの各国の民俗音楽の音色と曲調がほしい。衣装もどういうわけか民族的な子猫。歌とダンス。
M28「世界中の子どもたちを!」
大合唱。最後はカーニバル!(セットが300名を支えられるか?)
1場「日本の家族」
4つの、それぞれ独立した家庭が浮かび上がる。
家具や飾りをどこまでするか、こだわりはないが、何もないわけには行かないだろう。
取り囲むように、日本の親たちが登場して合唱する。
同時に、ダッハレムの子どもたちが襲い来る。彼らが興味津々となるためには、意外と家具を飾った方が生きるかもしれない。ワゴンを裏返すと、行徳駅前の飾りに使えないか?
場面の終わり、親たちはM19「市川メタボ」を合唱しつつ前に進む。紗幕が降りてくる。転換
2場「市川メタボ」
歌振り程度のダンス。間奏とともに紗幕が飛んで、行徳駅前のにぎやかさ。
簡単な吊り込みセットで、にぎやかさを強調。
M20「ここなら生きていける」は歌振り程度。
3場「日本の子どもたち」
紗幕前を想定。
4場「江戸川河口」
紗幕から山腹へ
各集団の配置が難しい。日本の大人たちは、高みから出て、ダッハレムの子どもたちを見下ろしたい。
M21「私たちを知ってください」は歌で勝負。
5場「駅頭」
紗幕前。
それぞれ手製のプラカード、のぼりを作成。
日本の子ども集団は、1幕のゴミ山の子どもたちの半分を当てる。
6場「江戸川河口」
M22「学校」
子ども出演者を半分に分けて、日本の子どもたちとダッハレムの子どもたちの歌合戦。
ダンス付。間奏が必要か?
M23「注文合戦」
稽古場で聞きだした子どもたちと親の本音が、ラップの形でぶつかり合うようなら成功だが、はたして面白い場面になるか不安。
集団の配置(ミザーンス)もかなり難しそう。
M24「子どもとはなんだ?」も歌いこなしたい。
M25「見放された子」は、周囲を落としてサス明かりで勝負。バイオリン(舞台登場)のみの演奏。泣かせたい。
M26「いつか!」も合唱勝負。
二幕に入ってからは合唱中心になるのが気になるが、時間的にも稽古量も難しい。
二つの子ども集団が分かれ、ダッハレム組は舞台の高みへ。強烈な光に包まれて、消えていく。
エピローグ
どういうわけか、ここでアフリカ・コンゴの人間(BBモフラン)が登場する。
太鼓を鳴らしながら、客席から舞台高みへ。
袖裏の声と掛け合って、子猫集団登場。(年長児〜小2 80名)
アジアの各国の民俗音楽の音色と曲調がほしい。衣装もどういうわけか民族的な子猫。歌とダンス。
M28「世界中の子どもたちを!」
大合唱。最後はカーニバル!(セットが300名を支えられるか?)
2008年03月21日
ASIAN BLUE! アジアの青い空 台本に沿って 一幕
プロローグ
「キャッツ」に似ているのは否めない。当初、野良猫による満月下の祭りシーンとしてコミカルにいこうと考えたが、どうにも処理できず、なにやら厳かな雰囲気になってしまった。この後の子どもたちの旅を重ねて、また子どもたちの救いはあるのかと問うプロローグになる。
こうなったからには踊れる出演者を30名ほど集めてカッコよく行きたい。もちろん、鳴き声とともに、暗い観客席からも登場することになる。
猫集団をもっと劇中に絡ませる工夫をしたいが、時間的関係から割愛した。提案があれば受け入れたい。
行徳富士の山腹での猫集団の集いを中断する形で、UFOを思わせる光の固まりが襲う。なぜUFOなのかはわからない。この世の子どもたちを救う絶対的な存在の象徴かも知れない。
恐怖に固まる猫集団が割れて、中央奥から飛び出してくる少年が叫ぶ「UFO!」。それでUFOとわかればいい。
1場「貴志の部屋」
貴志の勉強部屋。窓や机といったものはどのように表現するか、こだわりはない。ワゴンにする形になるのだろうか?
音楽はリズムのいい陽気な曲調でいきたい。両親はビールグラスや台所用品を使ってリズムを刻んでもいいかも。ともかくバカみたいに漫画チックに遊びたい。
2場「行徳富士」
洞穴にはこだわらない。真ん中の洞穴から、猫集団を中心とした舞台転換集団が飛び出して、舞台全体へとゴミ山が展開していけば面白いかと思ったまでだ。
3場「スモーキーマウンテン」
さて、大量のゴミをどう表現するだろうか?
見かけは満面のゴミでありながら、ダンスなどの邪魔にはならないように、また、当然舞台転換を容易にする工夫がなければならない。
そこで考えたのが、何枚もの広い布を用意して、そこにゴミらしき上物を貼り付けるというという工夫だ。上物も具体的なものに混じって得体の知れない、踏んでも壊れたり散らばったりしない軽い物が貼り付けられている。行徳富士では裏返しておいて、山肌のごつごつしたイメージになるし、ゴミ山でひっくり返されて一面のゴミが出現する。
5場の大都会ラングリエでは、その布が引き上げられて壁になってもいい。その前に多くの屋台などが並べば、混雑した市場のイメージが表現できるかもしれない。
この場の始めの転換(明転)では、上から多量のゴミを振り下ろしてもらいたい。長い大きな糸くずや紙くずといった感じだ。いずれにしろ匂い立つような混沌としたゴミ山であってほしい。
M7「宝の山」
ダンスというよりマイムだろう。
絶望感に彩られた気だるい退廃の雰囲気に始まって、最後は怒りが爆発する。
薄汚れた顔に目だけが異様に光っている人々、体にあちこちにゴミがへばりついている。
大人と子どもを合わせて200人くらい登場させたいと思う。
M8「争い」
青年と大人を中心に二手に分かれて、全員登場する。
開発賛成派と反対派のデモンストレーションがダンスとして表現される。時々、リズムを刻むように言葉が突き出され、憎悪がほとばしる。
「ウエストサイドストーリー」のシャーク団とジェット団の対立をダンスで描くシーンに通じる。周囲からたくさんの人間が見守る中で、両派の若者(でなくても)が示威行動をダンスと言葉で掛け合う。青年の踊り手を猫集団に取られてしまったら、はたして格好良く決まるか不安だが、人間の欲と憎悪が入り混じるエネルギッシュなシーンにしたいものだ。掛け声は周囲を取り囲む全員で罵倒しあいたい。
4場「働く子どもたち」
紗幕前に逃げ込んだ子どもたちの後ろ、紗幕中に下手にレンガ工場。上手にジュウタン工場が浮ぶ。
一方は炎天下で、一方は薄暗い工場内で、働く覆う税の子どもたちを、大人と子ども合唱・大人ソロ・子どもソロで歌い分けたい。ジュウタン織りの機械をどこまで用意するかが問題だが、写真ではどれも小さなもの。形を整えることは可能だろう。
5場「大都会ラングリエ」
このシーンはスペクタル第2弾(第1弾はゴミ山)といったシーンである。
大人全員と子どもの半分150名近い出演シーンとなる。
据え置きのセットを利用した、猥雑でエネルギッシュな市場・歓楽街の夜の光景を描き出したい。
パントマイムや群舞劇から始まり、勝手放題の大勢の声が乱脈に発せられ、響きあい、歌となり、ダンスとなって、爆発する。看板や屋台なども置きたいが、どこまでダンス空間が保証されるか?
大人たちが勝手に喚き合っている足元、壁際、高台、などあちこちにはボロクズの固まりがある。一瞬音楽が止み、ストップモーションが入ると、そのボロクズたちが動き出す。ストリートチルドレンである。小さな犯罪者たちと大人との争いも、ダンスにした方が返って表現になるかもしれない。子どもたちはできれば年齢差の豊かな集団にしたい。
6場「ストリートチルドレン」
M12は猫集団と猫合唱団とで演じられる。
猫集団は客席通路から登場する。通路のみ少々明るくしてピンで追う。ダンスを強調するシーンではなく、ダンス的パントマイムといったイメージで進行する。
途中から紗幕が上がり、市場のあちこちで眠り込むストリートチルドレンを慰撫するように猫たちが関わって消えていくと、サスライトの点滅の中で、舞台のあちこちで、子どもたちの会話が強調される。もやのような煙が流れている。
M14はストリートダンスである。
始め静かに、そしてだんだん盛り上がっていく。ここでは、演奏団とともに、子どもたち自身が、ゴミを利用した打楽器でリズムを刻みあう。ダンスは青年中心に進めたい。バンブーダンスに始まり、ケチャを思わせる掛け声が唱和するとともに、若者たちの絶望に裏打ちされた爆発的とも思える激しいダンスが生まれるといい。子どもだけでは難しいから猫集団が関与してもいいかもしれない。
メロディーやリズムはモダンなハイテンポでいいのだが、楽器の音色にエスニックなイメージがほしい。
この場の演技の中心は中・高生である。
M15「少しずつ 一口ずつ」
静かだが、どこか陽気な歌。
7場「行徳富士」
何もかもなくなって、山肌ばかり。一気に転換が可能かどうか。
子ども演技組
子どもの演技者は 日本の子ども4人×2組 小6〜中学生対象
姉・弟・他 5名×2組 小4〜高校生
ダッハレム10人×2組 小6〜青年対象
その他なるべくセリフを分けてやりたい
「キャッツ」に似ているのは否めない。当初、野良猫による満月下の祭りシーンとしてコミカルにいこうと考えたが、どうにも処理できず、なにやら厳かな雰囲気になってしまった。この後の子どもたちの旅を重ねて、また子どもたちの救いはあるのかと問うプロローグになる。
こうなったからには踊れる出演者を30名ほど集めてカッコよく行きたい。もちろん、鳴き声とともに、暗い観客席からも登場することになる。
猫集団をもっと劇中に絡ませる工夫をしたいが、時間的関係から割愛した。提案があれば受け入れたい。
行徳富士の山腹での猫集団の集いを中断する形で、UFOを思わせる光の固まりが襲う。なぜUFOなのかはわからない。この世の子どもたちを救う絶対的な存在の象徴かも知れない。
恐怖に固まる猫集団が割れて、中央奥から飛び出してくる少年が叫ぶ「UFO!」。それでUFOとわかればいい。
1場「貴志の部屋」
貴志の勉強部屋。窓や机といったものはどのように表現するか、こだわりはない。ワゴンにする形になるのだろうか?
音楽はリズムのいい陽気な曲調でいきたい。両親はビールグラスや台所用品を使ってリズムを刻んでもいいかも。ともかくバカみたいに漫画チックに遊びたい。
2場「行徳富士」
洞穴にはこだわらない。真ん中の洞穴から、猫集団を中心とした舞台転換集団が飛び出して、舞台全体へとゴミ山が展開していけば面白いかと思ったまでだ。
3場「スモーキーマウンテン」
さて、大量のゴミをどう表現するだろうか?
見かけは満面のゴミでありながら、ダンスなどの邪魔にはならないように、また、当然舞台転換を容易にする工夫がなければならない。
そこで考えたのが、何枚もの広い布を用意して、そこにゴミらしき上物を貼り付けるというという工夫だ。上物も具体的なものに混じって得体の知れない、踏んでも壊れたり散らばったりしない軽い物が貼り付けられている。行徳富士では裏返しておいて、山肌のごつごつしたイメージになるし、ゴミ山でひっくり返されて一面のゴミが出現する。
5場の大都会ラングリエでは、その布が引き上げられて壁になってもいい。その前に多くの屋台などが並べば、混雑した市場のイメージが表現できるかもしれない。
この場の始めの転換(明転)では、上から多量のゴミを振り下ろしてもらいたい。長い大きな糸くずや紙くずといった感じだ。いずれにしろ匂い立つような混沌としたゴミ山であってほしい。
M7「宝の山」
ダンスというよりマイムだろう。
絶望感に彩られた気だるい退廃の雰囲気に始まって、最後は怒りが爆発する。
薄汚れた顔に目だけが異様に光っている人々、体にあちこちにゴミがへばりついている。
大人と子どもを合わせて200人くらい登場させたいと思う。
M8「争い」
青年と大人を中心に二手に分かれて、全員登場する。
開発賛成派と反対派のデモンストレーションがダンスとして表現される。時々、リズムを刻むように言葉が突き出され、憎悪がほとばしる。
「ウエストサイドストーリー」のシャーク団とジェット団の対立をダンスで描くシーンに通じる。周囲からたくさんの人間が見守る中で、両派の若者(でなくても)が示威行動をダンスと言葉で掛け合う。青年の踊り手を猫集団に取られてしまったら、はたして格好良く決まるか不安だが、人間の欲と憎悪が入り混じるエネルギッシュなシーンにしたいものだ。掛け声は周囲を取り囲む全員で罵倒しあいたい。
4場「働く子どもたち」
紗幕前に逃げ込んだ子どもたちの後ろ、紗幕中に下手にレンガ工場。上手にジュウタン工場が浮ぶ。
一方は炎天下で、一方は薄暗い工場内で、働く覆う税の子どもたちを、大人と子ども合唱・大人ソロ・子どもソロで歌い分けたい。ジュウタン織りの機械をどこまで用意するかが問題だが、写真ではどれも小さなもの。形を整えることは可能だろう。
5場「大都会ラングリエ」
このシーンはスペクタル第2弾(第1弾はゴミ山)といったシーンである。
大人全員と子どもの半分150名近い出演シーンとなる。
据え置きのセットを利用した、猥雑でエネルギッシュな市場・歓楽街の夜の光景を描き出したい。
パントマイムや群舞劇から始まり、勝手放題の大勢の声が乱脈に発せられ、響きあい、歌となり、ダンスとなって、爆発する。看板や屋台なども置きたいが、どこまでダンス空間が保証されるか?
大人たちが勝手に喚き合っている足元、壁際、高台、などあちこちにはボロクズの固まりがある。一瞬音楽が止み、ストップモーションが入ると、そのボロクズたちが動き出す。ストリートチルドレンである。小さな犯罪者たちと大人との争いも、ダンスにした方が返って表現になるかもしれない。子どもたちはできれば年齢差の豊かな集団にしたい。
6場「ストリートチルドレン」
M12は猫集団と猫合唱団とで演じられる。
猫集団は客席通路から登場する。通路のみ少々明るくしてピンで追う。ダンスを強調するシーンではなく、ダンス的パントマイムといったイメージで進行する。
途中から紗幕が上がり、市場のあちこちで眠り込むストリートチルドレンを慰撫するように猫たちが関わって消えていくと、サスライトの点滅の中で、舞台のあちこちで、子どもたちの会話が強調される。もやのような煙が流れている。
M14はストリートダンスである。
始め静かに、そしてだんだん盛り上がっていく。ここでは、演奏団とともに、子どもたち自身が、ゴミを利用した打楽器でリズムを刻みあう。ダンスは青年中心に進めたい。バンブーダンスに始まり、ケチャを思わせる掛け声が唱和するとともに、若者たちの絶望に裏打ちされた爆発的とも思える激しいダンスが生まれるといい。子どもだけでは難しいから猫集団が関与してもいいかもしれない。
メロディーやリズムはモダンなハイテンポでいいのだが、楽器の音色にエスニックなイメージがほしい。
この場の演技の中心は中・高生である。
M15「少しずつ 一口ずつ」
静かだが、どこか陽気な歌。
7場「行徳富士」
何もかもなくなって、山肌ばかり。一気に転換が可能かどうか。
子ども演技組
子どもの演技者は 日本の子ども4人×2組 小6〜中学生対象
姉・弟・他 5名×2組 小4〜高校生
ダッハレム10人×2組 小6〜青年対象
その他なるべくセリフを分けてやりたい
2008年03月20日
ASIAN BLUE! アジアの青い空
1、作品のテーマ
現在の日本の子どもには真の青春期(葛藤期)がないというのが、私の直感である。
あまりにも幼い内から親の強烈な干渉と囲い込みの中で成長し、長じては学校という巨大な権威に組み込まれて教育信仰の一元的な価値観を押し付けられ、少ない余暇にはバーチャル幻想の孤独なゲームばかりに埋没して、自由で主体的な精神の発達が阻害されている。
子どもたちにもっと自由にたくましく育ってほしい。これがこのミュージカルのテーマである。
大人の誰もが、「子どもを大切に思っている」と思い込んでいる。しかし子どもの何を大切にしているのだろう?
「子どもの心の奥の本音に耳を傾けろ」と主張したい。その契機として、子どもの権利という概念を取り上げたいと思う。子どもの権利を話題にすると、必ず論議になる。権利というものを本音で理解できない日本人の特性と、親としてのエゴとの絡みが浮き立つからである。その点では、子どもの権利の実現というよりも、そうした議論を通して、大人の一人一人がじっくりと子どもを見つめ直してもらえたらいいと願っている。
2、“ダッハレム”とは?
一幕の舞台となるのは、南アジアにある発展途上国“ダッハレム”である。
もちろん仮想の国である。イメージとしては、インドやバングラディッシュのようでもあり、ミャンマーやラオスといった国でもあり、インドネシアでもありフィリピンでもある。いはばエスニックな異国情緒が混在した国である。特定の国をイメージさせる必要はない。
特定の民族衣装を必要としないし、使用する楽器や曲調や音色も、ある土地を特定する必要はない。音楽的イメージを強調すれば、アジア的な楽器の音色や曲調を混在させてロックやバラードで仕立て上げるといった感じか。
出演する子どもたちには、髪を切ることを禁じる。なるべくボサボサ頭にして、薄汚いTシャツや短パンを着させる。
3、舞台美術
舞台いっぱいに、小高い山の山腹が見える。固定される。
それが、建築残土の山である“行徳富士”から、フィリピンのマニラ郊外にある“スモーキーマウンテン”へと変化していく。
この変化は、観客の注視する中で、ゆっくりと変化していく。地面からも空からも、ゴミ、ゴミ、ゴミが臭い立つばかりに出現する。自然発火の煙たなびく中に、ゆっくりと湧き起こってくる気力なき幽霊のような集団はゴミ山で生活する子どもや大人たち。苦力や農奴にも似た絶望的な世界に耐える人々の悲惨で過酷な生活を躊躇することなく表現したい。
また、一幕の後半では、そこが腐敗した大都会“ラングリエ”の市場や歓楽街ともなる。吊り物パネルなどを利用して、混み入った街路の壁や猥雑な市場街の雰囲気を出したい。舞台のあちこちに放置されている布、ダンボール箱やボロクズの中には、ストリートチルドレンが隠れている。それが一気に動き出すのである。
見せ掛けの舞台いっぱいのゴミは、どのように見えて、また消えていくだろう? 舞台美術家の腕の見せ所である。
二幕では、大量のゴミはなくなる代わりに、日本の家庭四箇所と市川行徳辺りの駅前風景が、基本舞台を崩すことなく表現されねばならない。例によって舞台展開は素早いので、どのような舞台セットになるか楽しみである。
4、音楽とダンス
エスニックな異国情緒をたっぷりと味わいたい。ゆっくりとした展開と強烈なリズムによるエネルギッシュな展開とを併せ持ちたい。
今回は、従来のエレクトーン2台、キーボード1台、ドラムパーカッションを中心とした楽器に早川教授の軽快なバイオリンを引き立てるようにしたい。彼はひょっとしたら屋根の上のバイオリニストのように、舞台に登場しても面白い。また、エレクトーンがどこまでの音色に挑戦できるか不明だが、民族楽器の音色が混じれば嬉しい。
M14のストリートチルドレンによるストリートダンスは、子どもたち自身による打楽器演奏(竹、石油缶、ドラム缶、ペットボトル、といった廃物を利用して作った即席楽器を使用)をプラスさせて、ダンスはバンブーダンスやケチャを中心に展開したらどうかと思う。
5、照明
いつものパターンである。濃淡と陰影の明確なシャープな光を期待したい。ムービングライトやロスコーマシンは使用する。アジアンブルーの鮮やかな青と戦乱・歓楽・猥雑の赤、そして荒廃の茶褐色とを強烈に対比したい。
6、子どもの演技
今回は本格的な子ども演技への挑戦である。小学3年生から20歳ぐらいまでの年代による演技を組み立てる。時間は相当掛けねばならない。男の子がどれだけ出演するか、またストリートチルドレンが持つ荒廃した刹那的なたくましさが表現できるか不安だが、子どもの内面を引き出す稽古を重ねたい。
現在の日本の子どもには真の青春期(葛藤期)がないというのが、私の直感である。
あまりにも幼い内から親の強烈な干渉と囲い込みの中で成長し、長じては学校という巨大な権威に組み込まれて教育信仰の一元的な価値観を押し付けられ、少ない余暇にはバーチャル幻想の孤独なゲームばかりに埋没して、自由で主体的な精神の発達が阻害されている。
子どもたちにもっと自由にたくましく育ってほしい。これがこのミュージカルのテーマである。
大人の誰もが、「子どもを大切に思っている」と思い込んでいる。しかし子どもの何を大切にしているのだろう?
「子どもの心の奥の本音に耳を傾けろ」と主張したい。その契機として、子どもの権利という概念を取り上げたいと思う。子どもの権利を話題にすると、必ず論議になる。権利というものを本音で理解できない日本人の特性と、親としてのエゴとの絡みが浮き立つからである。その点では、子どもの権利の実現というよりも、そうした議論を通して、大人の一人一人がじっくりと子どもを見つめ直してもらえたらいいと願っている。
2、“ダッハレム”とは?
一幕の舞台となるのは、南アジアにある発展途上国“ダッハレム”である。
もちろん仮想の国である。イメージとしては、インドやバングラディッシュのようでもあり、ミャンマーやラオスといった国でもあり、インドネシアでもありフィリピンでもある。いはばエスニックな異国情緒が混在した国である。特定の国をイメージさせる必要はない。
特定の民族衣装を必要としないし、使用する楽器や曲調や音色も、ある土地を特定する必要はない。音楽的イメージを強調すれば、アジア的な楽器の音色や曲調を混在させてロックやバラードで仕立て上げるといった感じか。
出演する子どもたちには、髪を切ることを禁じる。なるべくボサボサ頭にして、薄汚いTシャツや短パンを着させる。
3、舞台美術
舞台いっぱいに、小高い山の山腹が見える。固定される。
それが、建築残土の山である“行徳富士”から、フィリピンのマニラ郊外にある“スモーキーマウンテン”へと変化していく。
この変化は、観客の注視する中で、ゆっくりと変化していく。地面からも空からも、ゴミ、ゴミ、ゴミが臭い立つばかりに出現する。自然発火の煙たなびく中に、ゆっくりと湧き起こってくる気力なき幽霊のような集団はゴミ山で生活する子どもや大人たち。苦力や農奴にも似た絶望的な世界に耐える人々の悲惨で過酷な生活を躊躇することなく表現したい。
また、一幕の後半では、そこが腐敗した大都会“ラングリエ”の市場や歓楽街ともなる。吊り物パネルなどを利用して、混み入った街路の壁や猥雑な市場街の雰囲気を出したい。舞台のあちこちに放置されている布、ダンボール箱やボロクズの中には、ストリートチルドレンが隠れている。それが一気に動き出すのである。
見せ掛けの舞台いっぱいのゴミは、どのように見えて、また消えていくだろう? 舞台美術家の腕の見せ所である。
二幕では、大量のゴミはなくなる代わりに、日本の家庭四箇所と市川行徳辺りの駅前風景が、基本舞台を崩すことなく表現されねばならない。例によって舞台展開は素早いので、どのような舞台セットになるか楽しみである。
4、音楽とダンス
エスニックな異国情緒をたっぷりと味わいたい。ゆっくりとした展開と強烈なリズムによるエネルギッシュな展開とを併せ持ちたい。
今回は、従来のエレクトーン2台、キーボード1台、ドラムパーカッションを中心とした楽器に早川教授の軽快なバイオリンを引き立てるようにしたい。彼はひょっとしたら屋根の上のバイオリニストのように、舞台に登場しても面白い。また、エレクトーンがどこまでの音色に挑戦できるか不明だが、民族楽器の音色が混じれば嬉しい。
M14のストリートチルドレンによるストリートダンスは、子どもたち自身による打楽器演奏(竹、石油缶、ドラム缶、ペットボトル、といった廃物を利用して作った即席楽器を使用)をプラスさせて、ダンスはバンブーダンスやケチャを中心に展開したらどうかと思う。
5、照明
いつものパターンである。濃淡と陰影の明確なシャープな光を期待したい。ムービングライトやロスコーマシンは使用する。アジアンブルーの鮮やかな青と戦乱・歓楽・猥雑の赤、そして荒廃の茶褐色とを強烈に対比したい。
6、子どもの演技
今回は本格的な子ども演技への挑戦である。小学3年生から20歳ぐらいまでの年代による演技を組み立てる。時間は相当掛けねばならない。男の子がどれだけ出演するか、またストリートチルドレンが持つ荒廃した刹那的なたくましさが表現できるか不安だが、子どもの内面を引き出す稽古を重ねたい。